丸岡秀子は、母親大会の“生みの親”とも言われている。

母親大会は、第二次世界大戦後、戦争に反対し平和を願う女性たちの強い願いから誕生した。まず戦後の時代背景と丸岡秀子の働きぶりに注目してほしい。

1950年代、米ソ対立の冷戦構造のなかで核爆弾の開発競争が進み、1954年3月太平洋ビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行い、日本のマグロ漁船第5福竜丸が被爆し、乗組員23人が放射能を浴び、ふたたび日本人が核爆弾の犠牲になった。そこで日本では直ちに原水爆禁止運動が起こり、署名運動をひろげ、900万人近くの署名が集められた。同時に「全世界の婦人に当てた日本婦人の訴えー原水爆の製造・実験・使用禁止のために」のアピール文書がつくられ、丸岡秀子は平塚らいてうら6名とともに署名し、国際民婦連本部に送られた。

この年、ベルリンで開かれた国際民婦連書記局会議は「世界の母親が子どもを守るために戦争に反対し、各国の再軍備を防ぎ、友好を深めよう」と世界母親大会の開催を提案した。翌1955(昭和30)年2月9日から5日間、スイス・ジュネーブで世界母親大会準備会が開かれ、47ケ国から婦人団体の代表250人が集まり、丸岡秀子は、高良とみ、羽仁説子、鶴見和子、本多喜美らとともに日本代表として参加した。

丸岡秀子と平塚らいてうの交際は、富本一枝の紹介による。平塚は丸岡秀子の農村婦人問題や生協活動、教育運動における誠実な活動に注目し、ジュネーブの世界母親大会準備会の日本代表にぜひとも参加してほしいと願っていた。しかし当時の丸岡秀子は手術後の身で、医師からも「なるべく安静に」といわれていて、らいてうの要請を何度も断り、富本一枝を通じて辞退の意を伝えていた。ところが平塚らいてうは「雪解けのぬかるみの中を下駄を履いて」世田谷の丸岡秀子の家へ訪れ、「低い優しい声で無理を承知の説得」を重ね、一歩も譲らない強い要請」を続けた。後年、丸岡秀子は平塚らいてうが「いかに信念を崩さない人」かと回顧しているが、富本一枝と平塚らいてうとの“信頼の絆”が強い魂と魂の結びつきであったかも示している。

ジュネーブで行われた世界母親大会準備会−議長は、フランス生まれの科学者ウージェニイ・コットン。物理学者マリー・キューリーの愛弟子で戦時中は反ナチ抵抗運動で二度も逮捕され、戦後は平和運動、婦人運動に献身し世界平和評議会の副議長も勤めていた。このコットンの「世界母親大会のために」と題した演説は1時間10分に及び、人間愛の精神に溢れた格調高い内容で丸岡秀子も感動している。会場では先に提出した「日本婦人の訴え」が配られて反響を呼び、丸岡秀子は「もっとも苦しんでいるものが、もっとも温かくむかえられることを知って安心もし、心からうれしく思った。この私の実感を日本のお母さんたちに持ち帰って、母親大会の準備をしたい」と述べた。最終日には日本から持参した原爆映画「永遠の平和」を高良とみの解説で上映している。

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ジュネーブの準備会から帰国した丸岡秀子、羽仁説子、鶴見和子の3人による報告会は3月8日にまず東京麻布公会堂で開かれ、平塚らいてうは「世界母親大会の前に日本母親大会を開こう」と提案した。これをうけて婦団連、日教組、日本こどもを守る会、婦人民主クラブ、日本生活協同組合連合会など60団体が参加して、直ちに日本母親大会人準備会が結成された。丸岡秀子は、羽仁説子、高田なほ子らと実行委員になり、@日本母親大会の開催に力を尽くす、A世界母親大会に派遣する代表を選ぶ役割も担った。ちなみに富本一枝も日本母親大会の準備段階から参加し、平塚らいてうや丸岡秀子を背後で支えていた。戦後史のなかでも1955(昭和30)年は、とくに記憶すべき重要な年になった。

@日本母親大会−記念すべき「第1回」は1955(昭和30)年6月7〜9日、東京の豊島公会堂、日本青年館などで開かれた。丸岡秀子は、東京での帰国報告会の後も全国各地で講演し、母親大会を開く意義を訴えてきたが、打てば響くような期待の高まりを肌で感じていた。当日会場には2000余人の母親たちが参加し、丸岡秀子は「母が、生活を語るだけなのに、その言葉は日本の深い矛盾に突き刺さり、新鮮な感動が場内から溢れ」「涙だけでは受けとめきれず、こみあげてくる憤りにみんなの唇は震えていた」「ほとばしり出る母親の訴えが、共感と感動の涙を誘った。それは参加者だけでなく、取材の新聞記者やカメラマンも目を真っ赤にして泣いた」と報告している。さらに著書「ある戦後精神」の中で、“涙の大会”といわれた第1回日本母親大会は「ふだん着の人々に、考えること、表現すること、批評し、要求すること、自分と杜会に目覚めることを学ぱせた。いわば思想をつかむ場を広々と開墾した」と、意義の重さも記している。

A世界母親大会の「第1回」は、スイスのローザンヌで7月7〜10日に開かれ、河崎なつら14人が日本代表として参加した。この代表選出は、有名人ではなく、大衆活動のなかから選ぶという目標で進められ、丸岡秀子は農村女性の代表として岩手県で山林地主の入会権蹂躙に対する裁判闘争を闘いぬいた土川マツエを推薦した。しかし選考委員15人のうち、当初は14人が反対して紛糾した。選考は多数決ではなく全員一致の取り決めで、丸岡秀子は粘り強く反対意見を聞き、その理由を問い糾していった。「東北弁は困る」「もんぺ姿ではどうか」など、反対する理由の矛盾や認識の誤りを糾しながら、選考会を6回も開き、20数時間を費やして、1票1票賛同者を増やし、ついに土川マツエを代表に加えて、世界大会へ送り出した。帰国した土川マツエの報告会は、素朴で朴訥としたものだったが、200回以上も東北の農村地帯で行われ、苦労している農村女性の心に響き、その後の「母親大会の種を蒔く」役割を果たしていった。

丸岡秀子の「人を見る目の確かさ」を伝えるエピソードだが、母親大会の産みの親としての働きも、農業・農村問題や女性問題に精通している「生身の論理」による裏づけがあつてのこと。同時に平塚らいてう、富本一枝らの友情と信頼の絆の強さも銘記しなければならない。

(解説 寺澤 正)