人権尊重と人間対等の原則の実現へ・・女性解放

女工哀史を遥か彼方に臨みつつ、人権尊重と人間対等の原則の実現へ。(『雇用の平等と女と男』三頁)

女性の人権・・というより人間として対等につき合える実質的な姿勢の人間性・・をたいせつにしなければならないと思わされた。人権とは、単に観念的なものでなく、生活に即した実質的な内容であり、姿勢なのだから。(『声は無けれど』一七九頁)

女が、人間として自立し、自立して仕事を持つことは、当然であるという不可欠の前提があり、その前提に立てば家庭か、仕事か、どちらを選ぶべきかという問題の立て方はあり得ない。どちらも大事であり、どちらからも手を抜くことはできない。手順をあとさきにすることはあるし、健康との睨み合わせもあろう。しかし、それは調整問題でも採否の問題でもない。(「素敵な女性」一九八〇・二)

昔の家制度は恟浴E子供揩フ一口で差別を強いられてきた。だが、その中で女性の年寄りたちは生活感覚を研ぎすまし、責任感にいのちを賭け、そこから自然に自信と威厳をたくわえていたように思う。(『いのち、韻あり』一五頁)

男と恊l間揩ニしての対等で社会参加するためには、女の気力は生半可であってはならない。その上でこそ、家庭生活や子育ての責任を、男にも対等に求める基礎が作られるからである。また、持っている条件も総動員して子どもを守ってほしい。家庭こそ、幸せの根源であり、その責任は家族全員が対等に背負っていると思うからである。そしてまた、それでこそ、わたしたちは、女の立場の要求に、身を張って挑めるのだと思うのである。(『いのち、韻あり』四九頁)

わたし自身は男女を問わず、一人の人間として働くことの大切さを自分に課し、それを援助する社会的施設を、どのように自分たちが創造して、次ぎの世代に手渡すかを一貫して考え通している。(『声は無けれど』三八頁)

子どもは自分で自分を作るという恊l間摶{来の実践を芽生えさせている。それを見つめる親でありたい。わたしは、そのことを痛いほど体験化してきた。同時にまた、女の労働に合わせて、育児施設も、人間も確保したい。それなくして、何の婦人解放だろうか。また、性別分担固定化の克服であり、雇用均等法の主張であろうか。このことも、絶対に確認しておきたい。(『いのち、韻あり』五二頁)

母親大会は、戦後女性史の原点を築くものであったが、それはまた戦後に限定されない。二十世紀日本の女性解放運動史に残る事業だったという評価があたえられてもよいのではないか。そして、コットン夫人が「あらゆる立場や意見を越え、戦争をふたたび起させないという一点での団結」といった言葉もまた、万単位の婦人を集めて開かれてきた持続のカギだといえよう。また、多数決でなく、全員一致の約束も、そうである。そこでは、限りない説得と、道理の追求が必要だからである。戦争を無くし、核の脅威を絶やし、そして平和をすべての家庭と国にもたらすのに、多数決は要らない。全員一致のはずである。真の民主主義は、そこに生きるのだと思う。(『いのち、韻あり』二一〇頁)

いうまでもなく、この母親大会こそは、誰にもなじみ深く、しかも諸矛盾を束ねて課題に満ち、それだけに女の問題を解きほぐす大切な怺ツ揩フような、これまでにはない運動だった。女性として母親になることは、誰でもとおる道筋である。その過程で、生活と取り組み、社会と取り組み、考えること、表現すること、批判し、要求すること、自分と社会に目覚めることを学ばせてくれる。(「新婦人しんぶん」一九八二・六・一七)

キュリー夫人の生き方、生かされ方は、人間として、女性として、大きなドラマそのものだった。ことに、心を打たれるのは、全生涯を通して、恣ュく揩アとを生き方の軸としていた、そのことだった。恣ュく揩アとをどんなに大切にしたか。その上に、恣ュく揩アとの中身が問題だった。その中身は、苦悩でいっぱいだった。苦悩が、働くことを励まし、働くことが苦悩を喜びに転化する。そんな連続の生涯だった。そして、それが深いところで作動しているだけに、ひとたび生活の表面にあらわれると、絢爛、豊富な画像となり、同時にまた、たとえようもない辛く、深刻な悲劇ともなっていた。(「素敵な女性」一九八〇・二)

女性が雇用において、平等をかちとることは、いいかげんな覚悟でできるものではない。近代の精神が、それを指し示しているように、意識とともに、能力を持ち、それを獲得することに怠慢であってはならない日常が、しっかり維持されていることが、大事な保証であると思う。それにしても、自分の仕事を持ち、そこに生きている証を実現することは容易なことではない。しかし、その苦労を積まなくては、生きがいは来てくれない。生きがいは、向こうから来るのではなく、自分の力でつかむものだからである。(「生活の設計」一九八五・一二)

家事・育児は、経済学における価値論争とは別に、どんなに大切であるか、有用であるか。それは生活の根源的課題だと思う。……そして、婦人解放と家庭生活の向上という視点を統一させたところで、家事労働の「社会化」を見通したいと思う。性別役割分担の問題も、それにかかわらせてみたいと思う。(『いのち、韻あり』二三八頁)

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