長野市において自主製作されていた記録映画『丸岡秀子・ひとすじの道 −ひとつの真実に生きて−』がいよいよ完成しました。監督は優れたドキュメンタリー映画を手がけている根本銀二さん、ナレーターは生前の丸岡先生と対談したことのある樫山文枝さん です。このHPに静かな曲を提供してくれた戸塚亮さんが音楽を担当されています。さっそく「文化庁推薦作品」に選ばれました。上映時間90分。

写真はナレータの樫山文枝さんが丸岡宅を訪れたときのスナップ。
『写真集 丸岡秀子の仕事/ひとすじの道を生きる』(ドメス出版、2000年)より


 マスコミの紹介記事

丸岡秀子の生涯を映画に

 農村女性の地位向上や平和運動などに取り組んだ佐久市(旧臼田町)出身の評論家、丸岡秀子さん(1903〜90)』さんの生涯をたどる記録映画「丸岡秀子・ひとすじの道」の撮影が、佐久市をはじめ県内外で進んでいる。丸岡さんの信念を貫いた生き方を伝えようと、県内の有志らが製作委員会を結成、今春に完成する。オーディションで選ぱれた地元の児童二人も子役として出演する。

 丸岡さんは旧臼田町の造り酒屋の長女に生まれたが、生後十ヵ月で実母を亡くし、貧しい農家だった母方の祖父母に育てられた。幼少時代に見た農村の過酷な現状と、封建的な家族制度の中で主婦に負わされる重労働がもとで早死にした母のことが、後に農村の女性問題に取り組むことにつながった。

 旧中込学校、長野高等女学校(現・長野西高)、奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大)を卒業。その後、全国各地を歩き、農村の生活を取材した「日本農村婦人問題」(37年)、自伝的小説「ひとすじの道」(71年)などの著作を生んだ。

 製作は長野映研(長野市)、監督はドキュメンタリー映画などを手がけてきた根本銀二氏が担当。今年四月の完成を目指している。製作費は一千万円。個人、企業、団体からの募金(一口三千円)をあてる計画。

<問合先=記録映画「丸岡秀子・ひとすじの道」製作委員会事務局 T&F 026-227-6255>

 丸岡先生の労作「ひとすじの道」は、中学生たちの課題図書に選ばれたこともあつて、大勢の子どもと親たちに読まれ、親しまれてきました。しかも読んで感銘を受けた子どもが親になり、わが子にも読み継ぐ歴史がつくられ、 丸岡秀子の精神が受け継がれ、語り継がれています。今回の映画にも、語り継がれて丸岡精神が現代社会脈々と生き続けているという証言が重要な場面として組み込まれています。この場面の撮影場所が「女性と仕事の未来館」というのも丸岡先生にはうれしい知らせかもしれません。
 丸岡先生の誕生日は5月5日ゆえ、2006年新緑の季節は自主制作映画「丸岡秀子・ひとすじの道」が大きな話題になるはず。この映画とともに丸岡先生の本がもっと多くの若い世代に読まれ、語り継がれるよう働きかけをしたいと思っています。(寺澤 正)
 

 寺澤先生の不思議なご縁で映画「丸岡秀子・ひとすじの道」の音楽を作曲演奏することとなりました。丸岡先生の「ひとすじの道」および寺澤先生の力作「三代の男たちと丸岡秀子」などをあらためて読み直し、暗く厳しい時代に流されずに生き抜いた人々の生きざまに心を打たれました。さまざまなほころびが随所で露呈しつつある現代社会にも、さらに暗く大きな影が忍び寄ってきているようですね。微力ながら全力で取り組むつもりです。当初は5月の完成予定とうかがい、心にゆとりもあったのですが、補助金の関係で3月末ということになり、内心とても絶望的な状況です。文化行政の皮肉を感じております。2006.2.11

 映画「丸岡秀子 ひとすじの道」のナレーションと音楽の仕上げが寺澤先生にも立ち会っていただき無事に完成いたしました。若い世代の人々には想像もできない人生を送られた丸岡先生の生きざまが実にわかりやすく描かれています。この映画に触発されて、一人でも多くの方々が丸岡先生の「ひとすじの道」や寺澤先生の「三代の男たちと丸岡秀子」を読み、前向きの生き方に目覚めてほしいと願うばかりです。それでこそ「埋葬を許さず」という精神が再び生きてくるように思います。音楽についてはこちらのホームページの曲も使わせていただきましたが、あと一週間あれば70点台になったかしらというところです。戦時体制、家父長制、貧困問題、複雑な家庭環境、権威主義的教育など、丸岡先生を取り巻く何重もの抑圧的な時代背景にひきずられて、音楽も少々暗くなりすぎてしまったのではないかと反省しており ます。2006.3.30

(戸塚 亮)

 趣意書

 丸岡秀子さんは、1903(明治36)年浅間山の麓、長野県南佐久郡臼囲町(現佐久市臼田町)の酒造家の長女として生まれ、1990(平成2)年5月、87歳で死去しました。生後十ケ月で生母と死別し、母方の祖父母に預けられて幼少期を過ごしました。少女期は農家の祖父母を助けて、土を耕す労働の日々を体験。生きる原点に「農」の意義を深く刻み込み、のちの「日本農村婦人問題」の名著につながりました。農村の婦人問題を解決しなくては、女性問題を語れないと、絶えず目線を弱者へと向け、「人間は何になるかではなくて、何をするか」というのが持論でもありました。

 丸岡秀子さんは十人弟妹の長女。すぐ下の弟には衆議院議員であった故井出一太郎氏がおり、直木賞作家の末弟、井出孫六氏は現在も健筆を奮っています。

 また、80歳を過ぎた老境で、57歳の最愛の娘を失う逆縁の悲運を乗り越えて書いた「声は無けれど」は、封建家制度の道を歩まれた丸岡秀子さんの渾身の生への証しが刻まれています。親子の生への原点をつきつめていけぱ、現代になっても根をはる家制度がちらつきます。5月5日は男の子の節句。この日に生まれた秀子さんは「もし、わたしが男の子に生まれていたら別の道を歩んだかもしれない」というのが口癖でした。

 女に生まれたことへの執着は深く、それは夫との死別や、幼子を連れて働く中にも投影し、その言動は教研集会、母親大会、憲法問題などにも言及するなど幅広く活躍され、今もなお新鮮味を失っていません。

 丸岡秀子さんの足跡を辿ることにより、現在、抱えている平和や人権、家制度への問題など、重い課題に立ち向かう一つの契機となってくれることを願い、自主映画製作を立ちあげました。