丸岡秀子こそ「教育者」といってもいいのではないだろうか。もとより丸岡秀子が実際に教鞭をとったのは戦前のごく短い時間(1924年から三重県の女子師範学校ほか)でしかなかった。しかし、その研究や生きかた、評論活動自体が"教育"であったといえる。

すでに戦前の恐慌時代から農村の現場を歩き、日本で初めて農村女性問題を調査し、論じたが、農業と教育は統一されたもの、教育は農業の営みそのもので、生命を育てる仕事として成立していると考えていた(詳しくは『いのち、韻あり』)。教育の大切さをつねに説き、危機の時代にはまず教育が真っ先に標的となると、警告を発していた(先頃、教育基本法の見直しが中教審に正式に諮問されたことを考えあわせて欲しい)。戦後の母親大会で、あるいは教研集会の助言者として、丸岡秀子が真剣に語りかけたのは、本物の教育、いのちを育み、かつ、分かれ道にさしかかったときしっかりとした判断力をもち、強い心を持つ人間を育てたい、ということだった。丸岡秀子は本物の人間の教師だった。

(解説 関 千枝子)