作家、評論家、その八十七年の生涯を賭け、つねに「魂をもって魂に話しかけよ」と、きびしい自己擬視の真摯な姿勢を貫き、農業農村・教育・女性問題など幅広い分野に及ぶ実践的な評論活動を続けられた。しかも苦渋にみちた「生身の論理」によることばを紡ぎだし、百冊(編著も含め)近い著作を残されました。

一九〇三年
五月五日
長野県南佐久郡の酒造業の長女として生れる。しかし生後一〇カ月で生母と死別。
少女期を中込村の農家であった母方の祖父母のもとで育てられ「農」を体験する。
一九二〇年 県立長野高等女学校。長野県知事の推薦によって奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)に入学。
一九二一年 陶芸家富本憲吉、一枝夫婦宅を奈良県安堵村に訪ね、以後親交を深め、教えをうける。
一九二四年 奈良女子高等師範卒業。三重県亀山女子師範学校教師に就任。
一九二五年 亀山女子師範学校を退職。上京して大原社会問題研究所から東洋経済新報記者になっていた丸岡重堯と結婚。重堯から経済・婦人問題を学ぶ。
一九二六年 川村女学院(現・川村学園)教諭となる。
一九二七年 東京市が募集した「婦人が観た東京市政」(第四回後藤子爵記念市民賞論文)で佳作入選。
一九二八年 長女明子誕生。
一九二八年 夫重堯急逝。産業組合中央会調査部勤務。消費組合運動に参加。全国各地を歩き、経済恐慌下の農村婦人の実態調査を続ける。自宅には下宿人を置き、家庭教師をして家計を支える。のちに「埋葬を許さず」と書く井田麟一と出逢う。農村調査は『日本農村婦人問題』(一九三七年刊行)にまとめられる。
一九三六年 世田谷千歳船橋に移住。奈良から成城に転居した富本夫婦宅で平塚らいてう、田村俊子と知りあう。
一九三七年 産業組合中央会を辞職。石井東一と再婚。北京商工会議所理事となった東一と北京に移住し、戦時中は北京で暮す。
一九四〇年 長男竜一誕生。
一九四六年 北京から引き揚げ帰国。