一九四九年 |
日本農村婦人協会設立、理事長に就任。 |
一九五一〜
六一年 |
日教組教研集会で講師を勤める。 |
一九五五年 |
国際民婦連世界母親大会準備会(於スイス・ジュネーブ)に鶴見和子らと出席。第一回日本母親大会開催に尽力。以後戦後の女性解放運動の原点の一つとして位置づけ、母親運動を支える。第十八回第二十回大会では記念講演を行う。 |
一九五七年 |
北京大学に宗像誠也らと招聘され、西安など中国各地を訪問。 |
一九六〇年 |
学者、文化人グループの安保反対デモに参加。 |
一九六二年 |
新日本婦人の会結成、平塚らいてうらと代表委員に。 |
一九七〇年 |
平塚らいてう、市川房枝、深尾須磨子らと「安保反対アッピール」を発表。 |
一九七一年 |
少女期の自伝小説『ひとすじの道』全三巻を刊行(〜七七年)七一年度読書感想文課題図書に。 |
一九七三年 |
沖縄を初めて訪れ、県教研集会に参加。 |
一九七六年 |
日本農業新聞「女の段階」愛読者の会を導く。農村女性の相談相手として地道な努力を。 |
一九七八年 |
『丸岡秀子評論集』(全一〇巻)刊行開始(九一年完結) |
一九八〇年 |
農業情報研究所委員となり、農政について女性の立場を提言。 |
一九八一年 |
『日本婦人問題資料集成』(生活、思潮、年表の各巻の編集、解説を担当)、毎日出版文化賞・特別賞受賞。 |
一九八三年 |
「丸岡秀子コレクション」として東販企画のブックフェア開かる。 |
一九八六年 |
長女明子逝去。鎮魂の書『声は無けれど』。平塚らいてう生誕百年祭で講演。 |
一九九〇年
五月二十五日 |
順天堂大学病院にて逝去。八七歳。護国寺でお別れの会。 |
一九九一年
十一月九日 |
「丸岡秀子さんを偲ぶ会」(家の光会館) |